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陳凱劭
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by 陳凱劭 » Sat Oct 15, 2011 8:01 pm
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by 陳凱劭 » Fri Nov 25, 2011 1:53 am
「故郷台湾」生きた国分直一
http://sankei.jp.msn.com/life/news/1111 ... 001-n1.htm
(日本產經新聞)
論説副委員長・渡部裕明
2011.11.19 03:20 [土・日曜日に書く]
10月の台湾は、日本の夏が引っ越したかのように暑かった。中華民国建国百年を記念する国慶大会の取材で台湾を訪れた。初めての土地にもかかわらず、いくつかの見聞から、改めて「日本」を発見する機会となった。
そのひとつは、国分直一(なおいち)(1908~2005年)との出合いである。残念なことに、国分の名前を知る人は民俗学や考古学、そして台湾に関心を寄せる人ら、ごく一部に限られている。
生後間もなく、転勤した父親に伴われて渡った台湾で育った。京都帝国大学文学部(国史学専攻)で学んだあと台湾に戻り、台湾原住民の民俗調査や貝塚の発掘などを精力的に進めた研究者である。
◆台湾育ちの学者として
台湾について記される歴史は、常に外来の政権による統治の歴史である。17世紀初頭には一部がオランダ領に、国姓爺(こくせんや)こと鄭成功(ていせいこう)の活躍を経て17世紀末には中国・清の領土となった。
そして「日清戦争」で明治28(1895)年、日本に割譲され、50年間の日本統治を経て終戦を迎えた。その後の1949年、大陸での共産党との内戦に敗れた中華民国政府と約130万人の中国人が移ってきたことは、知られる通りである。
台湾の人類学や民俗学、考古学は日本人学者の手で黎明(れいめい)が告げられた。植民地化以降、鳥居龍蔵(りゅうぞう)によって行われた民俗調査がその最初である。国分らの仕事はこれを普遍化させるものとなった。
10月中旬、台湾大学図書館で「国分直一 蔵書と標本文物」と題する特別展が始まっていた(12月2日まで)。
96歳の生涯で収集した文献を含め膨大なコレクションが台湾大に寄贈されたのを記念する展示で、国分がかの地で集めた遺物や写真、調査研究ノートなどが並べられていた。
「国分先生は台湾に近代的な民俗学、考古学調査の手法を持ち込んでくれました。併せて、この地で育った人間として台湾に温かい目を注いだのです」
図書館長をつとめる陳雪華教授が言う。図書館の一角には「国分直一文庫」が設けられ、多くの図書や調査記録が整理されていた。台湾の考古学や民俗学を学ぶ若者にとって、欠かせない資料となるに違いない。
◆戦後もあえてとどまる
国分は終戦後も、4年間にわたって台湾大学などで「留用」された。敗戦国民でありながら、特別な職務を台湾側が認め、任命したのである。
具体的な仕事は研究をまとめたり、収集した遺物を整理したり、空襲で被害を受けた資料を復元・整理したりすることだった。国分は遺跡調査などを通じて兄事した台北帝国大学教授で人類学者の金関(かなせき)丈夫(故人)とともに、辛抱強い作業を続けたのである。
「国分先生は妻子を日本へ帰しての留用生活でした。自分も戻りたいという気持ちをあえて抑え、愛する台湾のために、やりかけた仕事を完成させたかったのだと思います」
金関教授の息子で、国分とも親交のあった金関恕(ひろし)・天理大学名誉教授(考古学)は話す。
国分は昭和24年、日本に帰り、熊本大学や梅光学院大学(山口県下関市)などで教鞭(きょうべん)をとった。台湾にはその後も何度か調査に訪れ、平成11年には91歳で最後の訪台を果たした。原住民の友人たちと手を取り合い、踊りの輪にも加わったという。
◆いまも残る「近代日本」
10月10日は台北市の総統府前広場で、軍事パレードなど建国百年の記念行事を見学した。
この総統府の建物は大正8(1919)年、日本が台湾統治の本拠として建てた旧総督府庁舎である。中央に高い塔がそびえる赤レンガの美しいルネサンス様式の洋風建築で、100年近くを経たいまでも立派に現役をつとめている。
その日夕、総統府近くの台北賓館(迎賓館)でレセプションが行われた。こちらは明治34(1901)年に完成した旧台湾総督官邸で、日本庭園も併せ持つバロック風の2階建てである。日露戦争の名参謀、児玉源太郎も総督時代、ここで過ごした。総統府も含め、日本に残っていれば国宝、重文指定が間違いない名建築だ。
台湾ではいま、日本統治時代の古跡を訪ねることがブームで、日本からわざわざやってくる人も少なくないという。
つい100年前、日本人はこの地で建物を建て、行政を組織し、ライフラインを整えた。国分らの地道な貢献に見るように、学問や芸術も花開いた。現代の台湾の繁栄は、そのうえに立ったものなのだろう。台北の市街を歩きながら、そんなことを実感した。(わたなべ ひろあき)
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