国分 直一(Kokubu Naoichi, 1908-2005)

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陳凱劭
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国分 直一(Kokubu Naoichi, 1908-2005)

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「全方位的民族考古學者-国分直一系列活動」- 国分直一著作展
http://www.tiprc.org.tw/blog/post/1/393


台灣台北國立台灣大學圖書館,2011/09~2011/12

「全方位的考古學者-國分直一」學術研討會
2011年9月22日(四)
國立臺灣大學圖書館國際會議廳

國分直一《日本民俗文化誌》新書發表會
2011年9月22日(四)
國立臺灣大學圖書館國際會議廳

國分直一藏書文物展暨著作展
2011年9月19日(一)至2011年12月2日(五)
拜一至拜五08:20-19:00 拜六08:20-17:00
國立臺灣大學圖書館五樓特藏資料展覽區

國分直一著作展
2011年9月19日(一)至2011年12月2日(五)
拜一至拜五08:00-18:00 拜六及拜日09:00-17:00(每月最後一個拜三休館)
臺灣原住民族圖書資訊中心(國立臺灣大學圖書館B1)


台灣行政院原住民族委員會臺灣原住民族圖書資訊中心特與臺灣大學圖書館合作,於2011年9月22日舉行「全方位的民族考古學者-国分直一國際學術研討會」,擬邀請国分直一門生陳奇祿院長、宋文薰教授、楊南郡教授,及金関丈夫之子金関恕館長等重量級貴賓,結合臺日韓三國學者,來感念国分直一教授一生的志業和研究成果。

並將於9月19日至12月2日假台灣行政院原住民族委員會臺灣原住民族圖書資訊中心(台灣大學圖書館B1),展示国分直一教授相關著作。台灣大學圖書館5樓特藏資料展覽區亦將展出國分教授手稿、金関丈夫與多位人類學者共同撰寫之《回覽雜誌》以及當年国分教授率團挖掘之考古器物。

此外,国分直一教授2005年過世後,台灣國立台灣大學圖書館,積極向国分直一教授後人家屬爭取,將部份的国分直一教授藏書,寄付到国分直一心靈祖國台灣。後來確定將国分直一教授私人藏書約5000本(筆者量其大約目測,實際數字或有出入),運送來台灣,目前已整理分類上架完成,自2011年9月起在台灣國立台灣大學圖書館五樓陳列,供台灣人民參考閱覽。



国分直一系列活動紹介



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2560*1920 放大写真: http://gallery.kaishao.idv.tw/main.php/ ... 130322.JPG


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2560*1920 放大写真: http://gallery.kaishao.idv.tw/main.php/ ... 130321.JPG
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国分直一 (1908-2005) 略歷,及與顏水龍之交誼


台灣大百科 - 國分直一

維基百科 - 國分直一(台灣漢文)



国分直一 教授1908年生於日本國東京都,從小隨父親來到台灣,1927年進入台北高等學校(校址今國立台灣師範大學),比鹿野忠雄(1906-1945)略晚一回。卒業後進入日本內地的京都帝國大學國史學科就讀,1933年卒業後,又回到台灣;在台南州台南第一高等女學校(今台南女中)擔任教員。

之後國分直一教授在台南附近,課餘之暇,帶領台南中學生、同好,進行各種考古研究考察。知名的台灣文學家葉石濤唸台南州立二中(今台南一中)時,就曾經與同學,跟隨国分直一、金子寿衛男去台南附近考古遺址採集貝類化石。

国分直一先生的研究成果,得到台北帝國大學醫學部外科,體質人類學教授金関丈夫(1897-1983)的注意。金関丈夫教授並對国分直一先生,多所鼓勵與指導;也開啟了兩人亦師亦友的後半生交誼;国分直一先生並加入了金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲等人在1941年創刊的「民俗台灣」雜誌之編輯作者群團隊。

在此同時,国分直一先生的研究領域延伸到台南西拉雅平埔族的研究(佳里名醫名作家吳新榮先生推薦的題目),及各種考古人類學、古生物貝類化石等等研究。

大東亞戰爭時期1943年,国分直一先生轉到台北師範學校任教,此校是台灣歷史最久的師範學校(原總督府國語學校)。1945年終戰後,国分直一先生以技術學術人員身份,被陳儀佔領當局留用,之後擔任國立台灣大學教授,並與同時被留用的金関丈夫教授,合力完成「台灣考古誌」一書獻給台灣,才引揚歸國。

国分直一先生參與1948年10月,在台北市新公園台灣博物館、台灣總督府一帶舉辦的慶祝終戰三週年及台灣省博覽會當中的台灣史前史展覽。由金関丈夫教授與国分直一教授負責內容,立石鉄臣先生負責大型油畫作,畫的是台灣史前時代地貌動物人類生活想像圖。

此博覽會,筆者也有看到文字記載,彼時在今成大建築系擔任美術教授的顏水龍,負責博覽會台灣工藝史展示部份,惟筆者尚未找到顏水龍負責的相關展覽內容史料及寫真。

一直到1949年,国分直一教授才引揚歸國,伊可能是戰後,最後一批引揚歸國的來台日本人。

顏水龍教授何時與国分直一教授認識?筆者無從考證確認。有可能,国分直一教授在台南州台南第一高等女學校任教時,兩人因為有地緣關係而認識。但比較確定兩人有固定互動,是「民俗台灣」雜誌這個編輯作者群所搭起的平台,兩人開始有經常性的聚會、見面討論的機會。「民俗台灣」雜誌美編立石鉄臣,就是顏水龍在1920年代就認識的日本內地人畫家老友。

而金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、松山虔三、中村哲等「民俗台灣」的編輯作者群,從台北來到台南做民俗田野調查、吃喝玩樂時;在台南的吳新榮(作家醫師)、吳尊賢(台南幫企業創辦人,詳本站三連大樓壁畫)、国分直一、顏水龍等人,就需要盡地頭蛇的責任,好好招待他們,並且帶他們到台南附近的考古民俗本土工藝地點做田野調查了。

我們從楊雲萍教授文物史料裡發現,在大東亞戰爭末期,及戰後初期,金関丈夫與池田敏雄寫給楊雲萍教授的私信內容,提到了顏水龍と国分直一,這也說明了這群人經常往來聚會。

「民俗台灣」雜誌是從1941年到1945年初終戰前夕結束,這段期間「民俗台灣」的花絮新聞裡,還報導了顏水龍回台灣、結婚、去東京、去台北等等記事花絮、亦報導了大東亞戰爭期間顏水龍加入臺灣生活文化振興會、興亞文化協會的訊息。

戰後因為金関丈夫教授、立石鉄臣先生、国分直一教授被留用在台灣將近四年,這戰後四年間相信顏水龍教授與国分直一教授仍有多次互動往來的機會。

国分直一教授1949年回到日本後,繼續在學術界工作。国分直一教授自稱是「雜學家」,研究的領域很雜亂而不專精(當然這是国分直一教授自己謙虛的講法)。他在日本結合1945年以前在台灣認識的人類學家,及日本本土人類民族學家,展開了東亞的人類學民族學研究。

1974年,国分直一教授在日本創辦了えとのす(Ethnos in Asia —– 民族・民俗・考古・人類)雜誌,結合了與他一起曾在台灣做人類學考古調查的老朋友,及日本考古人類學家,以及他戰後在台灣被留用四年所培養新生代學者,一起來寫稿。

えとのす創刊號目錄。題字:金関丈夫。主編:国分直一。寫稿:陳奇祿、千々岩助太郎、宮本延人、劉茂源、陳春木、高業榮等多位台日兩國的考古人類學重量級的前輩。

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筆者收藏,1974年えとのす創刊號。

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国分直一教授戰後一直關心台灣的人類學考古研究,多次來台灣學術演講短期教學,甚至曾短期主持過台灣考古研究。惟彼當時的政治情境,國民黨政府並不支持日本時代的日本人學者,回到台灣延續戰前的研究,甚至打壓各種台灣本土研究,於是国分直一教授戰後的台灣研究是斷斷續續。国分直一教授回到台灣,與老友學生見面敘舊是一定有的。台灣是国分直一教授前半生所待的地方,也是国分直一教授心靈的故鄉。

1999年,国分直一教授因為騎孔明車不慎摔倒骨折,從此以後国分直一教授露面活動機會及學術研究的量,就大幅減少。2005年1月11日国分直一教授因年老體衰肺炎併發症過世。日本媒體登出了「国分直一氏死去 梅光学院大名誉教授」的消息。

国分直一教授在1945年終戰當時,年紀尚輕,後來又得享高壽。他可說是日本統治台灣世代,日本籍台灣學研究的最後一位。2005年他的逝去,象徵日本在1945年以前台灣研究世代,正式全部結束。

国分直一教授這群日本時代來台灣人類民族考古學者,雖都是植民統治集團一員,但都具有「族群平等、尊重多元文化,關懷弱勢」的概念,這在今天已是普世價值,但當年還不是;他們等於是比同時代觀念進步數十年的前衛人士。這群日本學者也熱愛台灣,關心台灣學研究,並為台灣培養出下一代的台灣學研究人才。

顏水龍教授因緣際會,在1930年代起從事台灣本土工藝考查振興,及台灣本土文化研究,而與這群日本人類民俗考古學者認識來往,亦是顏水龍教授人生特殊境遇。
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2011.09 國立台灣大學圖書館 「全方位的民族考古學者-国分直一系列活動」海報。

旁邊的海報正是「鹿野忠雄記錄片首映海報」。鹿野忠雄(1906-1945)也是日本時代中末期,重量級的人類學博物學家,與国分直一是台北高等學校前後屆,京都帝大校友,兩人有共事作研究過。

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台灣大學圖書館五樓,左起共五排書架,就是「国分直一捐贈藏書」,目視初估約有5000本。

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1995年9月,顏水龍送給国分直一教授的簽名畫集,1991年國立歷史博物館九十回顧展畫集。上有国分直一藏書章。

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1995年9月,顏水龍送給国分直一教授的簽名歯磨スモカ広告集,1995年實踐大學出版。這系列廣告,是顏水龍與国分直一年輕時共同的回憶。上有国分直一藏書章。

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国分直一教授收藏的千々岩助太郎教授著作「台湾高砂族の住家」(1988年台灣南天書局復刻版)

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国分直一教授收藏的千々岩助太郎教授論文「台湾高砂族住家の研究 第一報」(1937年,日本国台湾台北)

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国分直一教授收藏的立石鐵臣(1905-1980)「台灣畫冊」,1996年,台灣台北縣政府文化中心(主任:劉峰松)出版!(這套書筆者也有收藏)

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国分直一教授在大東亞戰爭末期,在台北師範學校學生黃則修(1930- ),贈給国分直一的攝影集。黃則修老師是台灣戰後的著名獨行俠攝影家,1985年起擔任實踐大學兼任教師,二十多年來黃則修老師一直負責照顧維護實踐大學校內「魯凱博物館石板屋」

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2011.09 國立台灣大學圖書館B1臺灣原住民族圖書資訊中心,國分直一著作展。

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2011.09 國立臺灣大學圖書館五樓特藏資料展覽區,國分直一藏書文物展暨著作展

(不准近攝照相,所以只有空間遠景)

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1962年,立石鉄臣先生在日本家裡畫的「台灣畫冊」;這原本是他自已畫來送給一位在台灣時的日本人長輩留念的。其中一幅主題是1948年底在基隆引揚歸國的情景。立石鉄臣先生可能是與国分直一教授、金関丈夫教授搭同一隻船引揚歸國的,可能是最後一批引揚的留台日本人。

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1999年,国分直一教授應立法委員蘇煥智(後為台南縣末代縣長)邀請,來台灣參加台南縣佳里北頭洋平埔文化祭及平埔西拉雅研討會。国分直一教授正在為粉絲簽名。這是国分直一教授最後一次回來心靈祖國台灣,也參觀了戰後停辦數十年的平埔祭典,国分直一教授非常興奮又重新看到年輕時的文化活動。

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國分直一教授、徐瀛洲先生(佳里人)。

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陳奇祿院士、國分直一教授、劉茂源教授。(左右兩位都是國分教授的學生)

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劉茂源教授、國分直一教授。後面戴帽子的是蘇煥智立法委員、縣長。

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主辦單位還安排国分直一教授到台灣台北總統府,由李登輝總統接見。李總統是国分直一教授在台北高等學校、京都帝大的學弟,戰後初期同時都在台灣大學;相信李總統應該當年就知道国分直一教授,而博學的李總統應該也讀過国分直一教授的台灣研究;兩人會面應該有談不完的話題,擦出火花,不會是官式應酬行禮如儀般接見。

国分直一教授是台灣平埔西拉雅學術研究的先驅者。台南縣佳里北頭洋平埔文化村,平埔家屋,屋內掛滿国分直一教授照片及著作、研究成果。平埔西拉雅後裔北投洋村民,非常尊敬這位七十多年前來到村子裡做調查研究的国分直一教授。

国分直一謙遜客氣有禮,當年來部落就是與他們交朋友,沒有架子,更不像植民統治者,国分先生一直是平埔西拉雅族村民懷念的長輩。

此部落距離顏水龍教授出生地下營紅毛厝,直線距離不到10KM。其實平埔西拉雅族後代遍佈附近,只是先後被漢化混血了。

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「故郷台湾」生きた国分直一

http://sankei.jp.msn.com/life/news/1111 ... 001-n1.htm
(日本產經新聞)

論説副委員長・渡部裕明
2011.11.19 03:20 [土・日曜日に書く]

 10月の台湾は、日本の夏が引っ越したかのように暑かった。中華民国建国百年を記念する国慶大会の取材で台湾を訪れた。初めての土地にもかかわらず、いくつかの見聞から、改めて「日本」を発見する機会となった。

 そのひとつは、国分直一(なおいち)(1908~2005年)との出合いである。残念なことに、国分の名前を知る人は民俗学や考古学、そして台湾に関心を寄せる人ら、ごく一部に限られている。

 生後間もなく、転勤した父親に伴われて渡った台湾で育った。京都帝国大学文学部(国史学専攻)で学んだあと台湾に戻り、台湾原住民の民俗調査や貝塚の発掘などを精力的に進めた研究者である。

 ◆台湾育ちの学者として

 台湾について記される歴史は、常に外来の政権による統治の歴史である。17世紀初頭には一部がオランダ領に、国姓爺(こくせんや)こと鄭成功(ていせいこう)の活躍を経て17世紀末には中国・清の領土となった。

 そして「日清戦争」で明治28(1895)年、日本に割譲され、50年間の日本統治を経て終戦を迎えた。その後の1949年、大陸での共産党との内戦に敗れた中華民国政府と約130万人の中国人が移ってきたことは、知られる通りである。

 台湾の人類学や民俗学、考古学は日本人学者の手で黎明(れいめい)が告げられた。植民地化以降、鳥居龍蔵(りゅうぞう)によって行われた民俗調査がその最初である。国分らの仕事はこれを普遍化させるものとなった。

 10月中旬、台湾大学図書館で「国分直一 蔵書と標本文物」と題する特別展が始まっていた(12月2日まで)。

 96歳の生涯で収集した文献を含め膨大なコレクションが台湾大に寄贈されたのを記念する展示で、国分がかの地で集めた遺物や写真、調査研究ノートなどが並べられていた。

 「国分先生は台湾に近代的な民俗学、考古学調査の手法を持ち込んでくれました。併せて、この地で育った人間として台湾に温かい目を注いだのです」

 図書館長をつとめる陳雪華教授が言う。図書館の一角には「国分直一文庫」が設けられ、多くの図書や調査記録が整理されていた。台湾の考古学や民俗学を学ぶ若者にとって、欠かせない資料となるに違いない。

 ◆戦後もあえてとどまる

 国分は終戦後も、4年間にわたって台湾大学などで「留用」された。敗戦国民でありながら、特別な職務を台湾側が認め、任命したのである。

 具体的な仕事は研究をまとめたり、収集した遺物を整理したり、空襲で被害を受けた資料を復元・整理したりすることだった。国分は遺跡調査などを通じて兄事した台北帝国大学教授で人類学者の金関(かなせき)丈夫(故人)とともに、辛抱強い作業を続けたのである。

 「国分先生は妻子を日本へ帰しての留用生活でした。自分も戻りたいという気持ちをあえて抑え、愛する台湾のために、やりかけた仕事を完成させたかったのだと思います」

 金関教授の息子で、国分とも親交のあった金関恕(ひろし)・天理大学名誉教授(考古学)は話す。

 国分は昭和24年、日本に帰り、熊本大学や梅光学院大学(山口県下関市)などで教鞭(きょうべん)をとった。台湾にはその後も何度か調査に訪れ、平成11年には91歳で最後の訪台を果たした。原住民の友人たちと手を取り合い、踊りの輪にも加わったという。

 ◆いまも残る「近代日本」

 10月10日は台北市の総統府前広場で、軍事パレードなど建国百年の記念行事を見学した。

 この総統府の建物は大正8(1919)年、日本が台湾統治の本拠として建てた旧総督府庁舎である。中央に高い塔がそびえる赤レンガの美しいルネサンス様式の洋風建築で、100年近くを経たいまでも立派に現役をつとめている。

 その日夕、総統府近くの台北賓館(迎賓館)でレセプションが行われた。こちらは明治34(1901)年に完成した旧台湾総督官邸で、日本庭園も併せ持つバロック風の2階建てである。日露戦争の名参謀、児玉源太郎も総督時代、ここで過ごした。総統府も含め、日本に残っていれば国宝、重文指定が間違いない名建築だ。

 台湾ではいま、日本統治時代の古跡を訪ねることがブームで、日本からわざわざやってくる人も少なくないという。

 つい100年前、日本人はこの地で建物を建て、行政を組織し、ライフラインを整えた。国分らの地道な貢献に見るように、学問や芸術も花開いた。現代の台湾の繁栄は、そのうえに立ったものなのだろう。台北の市街を歩きながら、そんなことを実感した。(わたなべ ひろあき)

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