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台北市西門町 日新戲院 旭日東昇壁畫
Posted: Thu Sep 30, 2004 2:42 am
by 陳凱劭
筆者攝影及合成,2004.07.05
攝於2005.05
顏水龍教授簽名;顏水龍 S. L. Yen 1966 作
台北市立美術館館長黃才郎與筆者合影,2004.07.05
2004.07.05
2004.07.05
2004.07.05
2004.07.05
詳細請看本人網頁(有較多照片、剪報):
台北市日新戲院顏水龍馬賽克壁畫獲保存
台北市日新戲院顏水龍旭日東昇馬賽克壁畫重生記者會
Re: 台北市日新戲院旭日東昇壁畫,2004.07攝
Posted: Mon Oct 25, 2004 8:49 pm
by 陳凱劭
壁畫關鍵人物:台北市日新戲院設計人,蔡柏鋒建築師
2003年接受筆者訪問。
蔡柏鋒建築師,日本時代台北工業學校(戰後為台北工專, 今台北科技大學)建築科畢業(他在台北工業學校知道有
千千岩助太郎教授,但沒被教過),終戰後1947到台南考取省立工學院建築工程系(今成功大學,此時千千岩已回日本),1951年畢業。
蔡柏鋒在校期間大一到大二(1947-1949),美術老師就是顏水龍教授。
蔡柏鋒建築師從省立工學院畢業後,在第一銀行任職,負責銀行建築工程(由一銀董事長黃朝琴親自口試,黃亦為台灣省議會議長)。
蔡柏鋒後來離開一銀,到沈祖海建築師事務所服務,最後自行獨立開業。憑著累積的人脈及經驗,蔡柏鋒建築師事務所規模飛快成長,成為1965-1995台北市大型事務所之一,業務主要在商業建築,例如百貨、飯店(台北、高雄的國賓飯店)、辦公大樓、高級集合住宅,韓國駐台大使館等等;蔡柏鋒並曾擔任台北市建築師公會理事長。目前因年事已高,已是退休狀態。
蔡柏鋒建築師,畢業後仍與老師顏水龍教授有聯絡,顏水龍教授開畫展,蔡柏鋒建築師一定抽空參觀老師畫展,並曾收藏顏水龍畫作。
1966年,蔡柏鋒建築師設計的台北市西門町日新戲院,二樓大廳有面約30公尺寬的牆,蔡柏鋒建築師剛好在國立藝專兼任「基本設計」課程,顏水龍也在藝專兼任,師生兩人一起教書。蔡柏鋒邀請老師顏水龍一起來創作一幅馬賽克壁畫,並找當年藝專的學生一起來製作。
就是今天這幅「旭日東昇」。這座由三代師生(顏水龍-->蔡柏鋒-->藝專學生)合作的公共藝術品,成為美談。
這幅旭日東昇壁畫,也是顏水龍教授馬賽克壁畫中惟一以抽象構圖的特例。
Re: 台北市日新戲院旭日東昇壁畫,2004.07攝
Posted: Fri Aug 18, 2006 6:52 am
by 陳凱劭
Posted: Fri Aug 03, 2007 2:12 pm
by 陳凱劭
TVBS-N:歷經近半世紀 日新戲院三度易主
http://www.tvbs.com.tw/news/news_list.a ... 0803182604
2007/8/3 18:26:30
記者:陳詩璧 攝影: 楊子毅 報導
日新大戲院走過半世紀,三度易主就是希望維繫西門町電影街的榮景,近10年來,整家戲院歷經整修、翻新首推情人座,而且保有知名畫家顏水龍,創作的馬賽克壁畫「旭日東昇」,在創新和變動之間,日新戲院試圖獨樹一格,卻還是不敵景氣跟財團。
導演蔡明亮拍的電影「不散」,描寫出老式戲院的大起大落,其中走過將近半世紀的日新戲院,就是電影街的代表之一。
這幅2公尺高的馬賽克壁畫,是知名畫家顏水龍45年前,送給日新大戲院的鎮院之寶,雖然三度易主,這幅旭日東昇依舊象徵當時的榮景。
民國55年開幕,日新戲院成了西門町街上著名的大戲院,88年更新設備首家推出情人專區轟動一時,可惜好景不常,92年12月拉下謝幕收場,隔了半年日新旗艦店進駐,才讓日新戲院重見天日,只是有線頻道跟影音光碟的競爭,最後還是被威秀集團併購。
日新威秀公關高婉綺:「我們地毯的部份有換新,牆壁也是,它本來的影音設備,就不錯了,那我們有做過調音,那現在音質又更好。」
店名、座位,還有這片長達30公尺,由知名畫家顏水龍特地創作的馬賽克壁畫通通不變,雖然戲院三度易主,不斷變創新改變,但是在歷史和現代之間,新穎的戲院不變的是當年瘋電影的氣象。
Posted: Sat Aug 04, 2007 3:04 pm
by 陳凱劭
Posted: Mon Sep 03, 2007 12:28 am
by 陳凱劭
時報週刊:顏水龍戲院壁畫昐新生
2007/07/20,第1535期
Posted: Wed Mar 04, 2009 12:36 am
by 陳凱劭
海角七號電影中的「日新戲院」
海角七號(海角七番地)是台灣有史以來,賣座最好的國片,在全國創下5.3億的票房,估計有220萬人進戲院看了電影;此外看盜版的、BT的、中國網站盜播的、正版DVD的,估計另有100-150萬人。
導演魏德聖成了2008年台灣風雲人物,這是他第一部商業電影,但他之前在電影界蹲了將近二十年了。魏導演學歷不高,但二十年來蓄積了強大的能量,在電影裡一次釋放。
魏導演未來將開拍一部台灣泰雅族原住民莫那魯道故事的電影,及另一部台灣平埔族原住民電影(我長這麼大,還沒看過有台灣平埔仔做主角的電影!)
電影院是導演最心繫的場所,電影靈魂的原鄉,這部台灣有史以來冠軍國片,也出現了「日新戲院」。
此外,有興趣可以看我寫的:
海角七號之終戰引揚(提到了顏水龍老友立石鐵臣、金關丈夫、國分直一)
海角七號之師生戀(提到了顏水龍老友池田敏雄、黃氏鳳姿;サヨンの鐘)
金美齢女史,談海角七號(日本產經新聞,2009.04.03)
【優先席から】評論家・金美齢 届くか台湾人の思い
http://sankei.jp.msn.com/world/china/09 ... 000-n1.htm
「私がこの十数年間で見た中で最高の台湾映画だ」と候孝賢監督が絶賛した「海角七号」の試写会が3月29日、アルカディア市ヶ谷で開催された。日本李登輝友の会が日本語版の翻訳を手伝い、一般公開を待つ運びになった。超満員の会場には、小林よしのりさんの姿も見え、熱気にあふれていた。
製作費が少なく、話題にもならない作品だったが、上映されて2カ月で、台湾映画の興行成績トップに躍り出た。奇跡的に、すべての国産映画の記録を破ったのである。昨年11月週刊誌「新台湾」(現在休刊中)は「海角七号很台灣 撫慰受傷本土派」(リアルな台湾に回帰した映画に、傷ついた本土派=選挙に大敗した台湾派が癒やされる)と題するカバーストーリーをはじめ、30ページ近くを割いて紹介している。
これは2人の友子さんの物語である。日本統治時代、日本人教師と相思相愛だった台湾人友子と六十余年後、台湾で孤軍奮闘し、台湾青年アガに恋する日本人女性友子。2人の運命は、7通の手紙で結ばれる。教師が教え子友子にあてて深い思いを切々と書きつづった手紙は当時は発送されず、その亡きあと、娘によって台湾に郵送されるが、あて先の「海角七号」は過去の住所で、配達できないでいた。
アガも深い敗北感を抱えて、台北から故郷恒春に舞い戻ってきた。ロック歌手の夢かなわず、ギターを捨てて投げやりの日々。母親の愛人、地元の有力者の口利きで、郵便配達のバイトを始めたが、まるでやる気がない。
登場人物は、妻に逃げられた原住民、勤勉なハッカ系、いいかげんで陽気なホーロー系の台湾人、台湾でキャリアを確立しようとあがいている日本女性などで、なぜか「外省人」(大陸出身者の子孫)が一人も出てこない。日本人歌手、プロモーションのための外国人モデル、多重文化の多彩なエピソード。リアルな南台湾で中国語は話されるが、外省人はいない。
有力者の肝いりでフェスティバルに出演することになった地元のメンバーは、アガをはじめいずれも「問題児」だが、本番直前に7通の手紙は届けられ、アガは演奏の合間、友子に求愛する。
「終わりよければすべてよし」。2曲しか持ち歌のない地元寄せ集めバンドは、大歓声の中、アンコールに「のばら」を歌う。これは日本統治時代の小学唱歌として、年配者が歌い続け、若者たちも自然に口ずさむ歌なのだ。エンディングは冒頭の日本人引き揚げシーンに戻る。埠頭(ふとう)に立ちつくす友子の足元にはトランクが。しかし、船上の教師はまともに別れが告げられず、身を隠している。自信と勇気を喪失したその姿は、敗戦のトラウマからついに立ち直れなかった現在の日本を彷彿(ほうふつ)させる。「…(あなたを)棄(す)てたのではない。泣く泣く手放したのだ」との手紙の言葉。敗戦直後の日本の姿そのものだが、今でも日本が大きく変わったとは言い難い。海角七号の英語はCape No・7。The Cape of Good Hope(喜望峰)。台湾人の思いが込められている。
台湾では多くの若者が「感動した」と2回も3回も映画館に足を運んだ。挫折、癒やし、そして再生への希求。泣く泣く友子(台湾)を手放した青年(日本)。台湾人の優しさは、日本でも多くの観客を集められるだろうか。(きん びれい)
Re:
Posted: Sat Apr 14, 2012 1:18 am
by 陳凱劭
1960年代,日新戲院剛落成啟用營業時,戲院送的番仔火。